こんにちは。いまちあかりです。
ここでは、わたしの子供時代から今に至るまでの略歴を綴りたいと思います。
超ざっくりいうと、生まれつき無気力な子供で、努力が苦手で逃げまくって、自尊心ゼロのまま大人になったら就活できずにうつ病になって、悩みまくった挙句に発達障害が判明して、今は非常勤保育士をしているよ。って感じ。
説明雑なのに内容濃いな!
子供時代
保育園時代はちょっと不思議ちゃんだった
幼少期、わたしは保育園に通っていました。
そのころはちょっと不思議な子供だったようで、へんてこなエピソードも多数。
たとえばあるとき、先生がなかなか教室に戻ってこないわたしを探すと、わたしは園庭のすみで一人遊んでいたそうです。
先生が「あかりちゃん、こんなところで一人で何してたの?」と聞くと、
妖精さんと遊んでたのー!
と答えたそうです。自分ではまっっったく覚えていませんが…
そしてまたあるとき、祖父母の家で、祖父と二人でかくれんぼをしていたときのこと。
わたしがまだ隠れていないのに祖父が探しに来てしまって、それが嫌で泣いたらしいのですが…
まきもどし!まきもどしィィィィィ!!!
と、テレビのリモコンを指さし、半狂乱になって泣いて訴えたそうです。汗
やり直しをしたかったのだろうか…
リモコンの巻き戻しボタンを押せば、時間が巻き戻ると思ったのかもしれない。
テレビと現実の区別がついていないヤバいガキだったのか
…もう少し言葉選ばん?
あとは保育園の連絡帳にも、年がら年中「あかりちゃんは今日もマイペースに…」と書かれるくらい、やることなすこと常にゆっくりな子供だったようです。
保育士になった今思うんですけど、周りのペースにまったくついていけない、良く言えば自分ワールド全開、悪く言えばめちゃどんくさい子供って、保育園にはたま~に、でも必ずいるんですよね。
自分はそれだったのか…と。
まあこんな風に、幼児期は少し変わっていて、マイペースな(どんくさい)子供だったわけですが、子供のころはちょっとくらい周りと違ってもだいたい「個性」として片付けられてしまいますからね。
のちのちあんなに苦しむことになるとは、つゆほども知らないのんびりあかりちゃんでした。
目立たない普通の女の子
小学校に上がったわたしは、どこのクラスにも必ずいる、大人しくて勉強もそこそこできる目立たない女子でした。
落ち着いて授業も受けられるし、勉強もそれなりに(中の上くらい?)できてしまう。
だから、誰にも特に注目されるようなことのない普通〜の子どもでした。
誰にも迷惑なんてかけることもなく、だから特別目をかけてもらった記憶もない。
とにかく目立たない女子。
しかし。
はちゃめちゃだらしない人間だった
だ〜れも気づいていなかったし、自分でも自覚がなかったのですが、わたしは子供の頃からほんとーーーうにだらしのない人間でした。
忘れ物が多い、片付けられない、鞄の中もいつもごちゃごちゃ、遅刻癖が直らない、人の話をすぐ忘れる、物事に集中できない、提出物が出せない、周りよりいつもワンテンポ遅い...etc。
そう、いくらでも挙げられるのです...自分のだらしないところなら!
勉強はできる方でした。
なのに、生活態度がとにかくだらしなく、できないことだらけ。
特に、努力をすることが苦手で、勉強も本当は基本的に嫌い。最&悪ですね。
それでも、どうしたらいかに少ない時間だけ勉強すれば効率よく覚えられるかを考えてから勉強していたので、あまり勉強時間をかけずにテストで点だけはとれていました。
だから、成績は優秀で、誰もだらしなさに気がつかない。
でも、夏休みの宿題は最終週に焦ってやるし(なんでもめんどくさくて後回しにしてしまうため)
算数ドリルや漢字ドリルなどの、ドリル系の勉強が大嫌いだし(単純な作業の繰り返し嫌い)
自分の嫌いな分野のことを努力するというのがものすごく苦手な子どもでした。
そして、テスト前でもろくに勉強しないで「早くテスト期間終わらないかなー...」と思っていた中学時代。
遅刻60回を超えてクラスの女子で遅刻率トップ!と担任に笑われた高校3年生の後期。
それでも、テストの点さえ取れればなんとかなってしまうのが学生時代。
よく点は取れたなって思います(真顔)
「必要最低限のことだけやってれば、嫌いなことは逃げても良い。」
意識はしなくても、本能的にそう思っていたのだと思います。
今思えば、逃げてばかりの子ども時代でした。
勉強から逃げ、部活や委員会で面倒な立場になることも避け、好きなことだけやって。
周りから「ボランティアとか、なんか身になることとかやってみたら?」と言われても、嫌がって何もしませんでした。
だってめんどくさかったから。
面倒くさいことにあえて挑戦するとか、そういう選択肢は存在しなかったんだな。
それができれば苦労はしてませんよ(遠い目)
でも、中学に行って、テスト勉強とかボランティア活動とかから逃げまくるようになって、初めて「わたしって逃げてばっかりだな...」と気づいた超鈍感人間でもあります...。
さらに。
親に「将来何になりたいか決めろ」と半ば脅される幼少期だった
我が家は父が絶対的存在でした。
典型的な亭主関白。さだまさしもびっくりの絶対権力でした。
(ちなみに関白宣言、聴いたことあります?
あれ、関白失脚っていう続きの曲があるんですよw)
子供の頃は、父が怖かった怖かった。
今考えると非常にばかばかしいのですが、友達とカラオケに行くだけにしても「あの〜、明日友達とカラオケに行ってもいいでしょうか...?」と聞いていました。許可制。
「ダメだ」って言われたら行けません。実際何度も許可が下りなくて、友達の誘いを断ってました。
過去のわたしに「いや、無視して行けよ、友達大事にしろ」と言いたい...。
そんな絶対神である我が父から、幼い頃から呪文のように聞かされてきた言葉が、
「将来何になりたいか早く決めろ」
でした。
いやいや、そんな決めろって言われたからって簡単に決められるわけないじゃないですか。子供だし。小学校低学年とかからずっとですよ?
しかも父が言っている「何になりたいか」は、「アイドルになりたい♡」とか「ピアニストになりたい♪」みたいな子供らしい夢のあるやつじゃなくて、ガッチガチのガチのやつ。
父いわく、「自分の得意なことから逆算して考えれば、何になりたいか決まるはずだ」と。子供に何教えてんだ。
しかし、そんな父の呪文のような刷り込みに見事にとらわれ、
「早く何になりたいか決めなきゃ...!得意なこと見つけなきゃ...!じゃないとまともな人間になれない...!」
という、幼い子供にとって恐怖以外の何者でもない思想を植え付けられたのでした。
だがしかし!成績こそ中の上くらいなものの、何もかもすべてから逃げてばかりのわたしに、一体何の取り柄があったというでしょうか、いや何もない。
少なくとも、自分では自分の良いところなんてわかっていませんでした。
自尊心が育っていなかったんですね...。
父は「何になりたいか決めろ」と言っても、わたしの良いところを褒めてくれるような人ではありませんでした。
母もいわゆるバリキャリな女性だったので、仕事と家事が忙しく、わたしに構っている暇はあまりない人でした。
もちろんすべてを親のせいにするわけではありません。
ただ、保育士(一応)をやっている今にして思うのですが、親ってやっぱり子供にとって非常に人生を左右する大きな存在です。
わたしにとって、父の言葉は呪いでした。
そして、逃げてばかりの自分の、得意なことや良さなんて、何も見つけられなかった。
いえ、ありました。一つだけ、わたしは英語が好きで、英語の成績が中学校時代にすごく良くて、「英語の勉強がしたい!」と本気で思ったことがありました。
そんなわたしに父は言いました。
これからの時代、英語だけできてもダメだ。英語を専門に学んだって意味がない。
それよりも、プログラミングを勉強しなさい。プログラミングと英語をダブルスクールで勉強するなら、英語の学校に行かせてやってもいい。
頭が真っ白になりました。
わたしはプログラミングなんて、かけらも興味がなかった。
結局、父はわたしに、父がいいと思った勉強をさせ、父がいいと思った仕事に就かせたいだけだったのでした。
これはあとから知ったのですが、母いわく、父は昔から「子供の将来は親がレールを敷いてやらなきゃ」と常々言っていたそうです。
わたしはプログラミングなんて勉強したくありませんでした。
根っからの逃げ体質ですから、当然父のその提案からも逃げましたが、わたしは同時に英語を学ぶ機会からも逃げてしまいました。
これもあとからわかりましたが、英語を話せるだけで、就活にはかなり有利、というか中小企業なら引く手あまただったんですね。
父の言葉を信じた自分がばかでした。
いよいよ途方に暮れたわたしは、母の「あんた昔から小さい子と遊ぶの好きよね?保育士にでもなれば?」という言葉に、わらをもつかむ気持ちで保育の大学に入りました。
大学・就活
大学時代
大学に入っても、逃げまくる生活は変わりませんでした。
授業も、サークルに入るのも、ボランティア活動も、全部めんどくさいし嫌だった。
大学に入って保育士の勉強をしてみて、そこで初めて、「わたし全然保育に興味ないじゃん...」とわかりました。ばかですね。
でも、どのみち他に何もありませんでしたから。
気がついたら大学入試で、「何になりたいか早く決めろ」って追い立てられて、何も見つからないのに無理矢理決めましたからね。
授業は寝まくってましたね。よく単位取れたな〜っていう授業もたくさんあります。
本当、大学行った意味、何もないです。
金の無駄だろー!って、自分で自分の脳天かち割りたい。
そして、アルバイトも続きませんでした。
スーパーとコンビニではなんとか半年ずつ働けましたが、塾講師のアルバイトにいたっては2週間で辞めました。
授業の前に毎回テキストを確認したり、必要なプリントをコピーしたり...という作業が嫌になった。というか、それだけでキャパオーバーになってしまって、 教えるなんてとんでもなかった。
授業にバイトに将来に、逃げてばかりの学生時代。
これでいいなんて、思っていたわけがありませんでした。
「自分はなんてダメ人間なんだろう。どうして努力できないんだろう。なんで何でも投げ出してしまうんだろう」
気がつくと、ずっと、ずーっとそう考えるようになっていました。
社会に出ることからは逃れられない
就活。地獄でした。
面接ができない。
いろんなことから逃げ過ぎて、アピールすることがない。
終わりの見えない就活というものに耐えられない。
でも、今まで嫌なことからはすべて逃げてきたのに、逃げることが可能だったのに、就活だけは、逃げられないと思いました。
だって、わたしは「何になりたいか決めなきゃ」ならなかったから。
何にもなりたくないなんて、許されないと思ったから。
何もしたくなくたって、時間がくれば大人になるし、大学からは追い出されて、社会に放り出される。
社会に出ることからは逃れられない。
わたしは追い詰められました。
この頃は人生で一番苦しくて、毎晩朝になるな、このままずっと夜のままであってくれと思っていました。
そしてある日、ぷっと糸が切れたように、
「もう無理だ。人生から逃げよう」
と思いました。
どのみち、就活はほとんど放棄していました。
父に呆れられていると感じていたわたしは、家にも居場所がないと思っていました。
就活からも逃げ、家族からも逃げるには、もはや死ぬしかないと思いました。
そして家にあった薬を大量に飲み、自殺を図りました。
帰宅した母と、母から連絡をもらって帰ってきた父によって、病院に救急搬送。
命はとりとめましたが、薬の過剰摂取のせいで2〜3日は体が思うように動かせず、人生初の車椅子生活を送りました。
そのまま、うつ病と診断されて入院。
就活もそこで強制終了させましたから、どこにも決まらないまま、卒業を迎えました。
その後、当時アルバイト先で行っていた保育園に、そのまま非常勤保育士として働かせてもらえることになり、退院後に働き始め、今に至ります。
壮絶というか、馬鹿というか…。
結局、保育士にはなりたくてなったわけじゃないのか?
もともとはね。
でも、仕事をしていく中で、子供と関わる楽しさに気付いたし、やりがいのある仕事で今はすごく好きだよ!
「怠け病」には名前があった?
発達障害との出会い
さて、親の呪いと、努力が苦手なことに翻弄されて苦しみ続けた人生ですが、自分が発達障害をもっているのではないかと思い始めたのは社会に出て4年ほど経ってからのこと。
うつを発症し、自殺も試み、生きるために頑張ることができない、むしろ頑張らなきゃならないくらいなら死のうと思うくらい酷い自分の無気力さ。
ずっと自分の性格のせいだと思ってきましたが、いつからか「何か原因があるのでは?もしかしたら、脳の病気か何かなのでは?」と考え始めました。
一応保育の道に入った人間なので、子供の障害や病気などについて、一通りは大学で勉強してはいました。
(講義、かなり寝てたけどな...)
それでも、自分が発達障害ではという考えにはなかなか至りませんでした。
「怠け癖 病気」や「努力できない病」なんていうワードを検索ボックスに入れては調べまくる日々...
そうしていろいろなページを見ていく中で、だんだんと発達障害の存在が浮かび上がってきたんです。
努力できない脳をもつ障害、ADHDの不注意優勢型
特に驚いたのが、発達障害の中でもADHD不注意優勢型という障害。
ADHD〔Attention Deficit Hyperactivity Disorder:注意欠如・多動症(注意欠陥/多動性障害、注意欠陥・多動症とも呼ばれます)〕は発達障害の1つで、「不注意」「多動性」「衝動性」といった症状が特徴としてみられます。
引用元:https://adhd.co.jp/otona/about_adhd/
正直、ADHDって、多動っていうイメージが強くて、私みたいに昔からおとなしいようなタイプはまったく当てはまらないと思っていました。
でも実際には、ADHDにはいろんなタイプがあって、多動(じっとしているのが苦手)、不注意(集中力・注意力が弱い)、衝動(何かしたいと思うと我慢できない性質)という3つの症状が人により様々なバランスで現れるのだと知りました。
それからADHD の方の体験談を読むと...
「これ、私じゃん...」
今までの自分に気持ち悪いくらいに重なりました。
目から鱗。
そして、私の一番の悩みの怠け癖。
これも、ADHDの脳機能障害による症状の可能性があるとわかったのです!
目から鱗どころか、魚が飛び出たかと思いましたよ。
心からそう思ったわたしは、自分が発達障害なのかどうかはっきり確かめるため、検査を受けることにしたのでした。
発達障害の検査、WAIS‐Ⅲを受けた
うつ病にかかって以来、わたしは心療内科のクリニックにかかっているのですが(現在進行形)、運良くそのクリニックが発達障害を診断するためのWAIS‐Ⅲという検査を実施しているクリニックだということがわかり、さっそく検査を受診。
すると…。
うっひょほ~!
くっきり出たな~!
というくらいにはっきりと、発達障害の傾向が現れたのです。
さらに細かく見ていくと、自分は手を動かす作業や、目で見たものを理解することが苦手で、人より時間がかかる傾向にあるということまでわかりました。
「マイペース」と言われてきたのはこれが原因なんだな。
さらに、場の空気を読む力が弱く、対人関係を築くのが困難である可能性が高いということまでわかったんです。
対人関係が下手だから、新しい環境に入っていくのがつらかったんだよね。
だから、いろんなことから逃げてしまっていたって考えられる。
こうしてWAIS‐Ⅲを受けることで、発達障害がわかり、自分のトリセツを手に入れたことは、ものすごくこれからの人生を生きていきやすくなったと思っています。
まとめ
長くなってしまったので、そろそろまとめます笑
逃げてばかりの自分と、親からの呪いに翻弄されてきた子供時代でしたが、発達障害がわかり、非常勤保育士として平穏無事に働き過ごすことができているので、今はかなり楽しく生きています。
結果的に、保育士の仕事は楽しいので、自分に合っていたのかも、とも思っています。
今後は、保育士の仕事を細く長く続けつつ、このブログを通じて発達障害やうつ病、その他趣味(脱出ゲームとか旅行とか)や日頃あたまの中で考えているいまち流プチ哲学(笑)なんかを、なんとか逃げずにちまちま書いていけたらな、と思っています。
いまちあかりと「いまち月のハコニワ」をどうぞ末永くよろしくお願いします!
(無理やりまとめたな)